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1 : マンサク(東京都):2009/06/08(月) 16:02:04.42 ID:JsJoLmFk●
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「金正雲は日本の漫画好き、韓国の学生とも親しく」

金正日(キム・ジョンイル)国防委員長の後継者と伝えられている金正雲(キム・ジョンウン、26)に海外メディアの関心が集中している。金正雲は学生時代、マイケル・ジョーダンとアーノルド・シュワルツネッガー(ターミネーター)のファンで、日本の漫画を好み、韓国の学生とも親しかったと、英日刊紙ザ・タイムズ電子版が8日報じた。

同紙は、93年から98年まで金正雲と一緒にスイス・ベルン国際学校に通った同窓生の話を引用し、学校では頭脳明晰で、かっ達な性格だったと報じた。 金正雲は当時「ベク・チョル」という名前で学校に通ったという。

同紙は独メディアの報道を引用し、金正雲はユーモア感覚があり、北朝鮮の敵対国から来た学生とも仲良くしていたと報じた。 金正雲は政治の話が学校でタブーとされたため、主にサッカーについて話をした。

金正雲は韓国の学生らと多くの時間を過ごした。 金正雲は日本の漫画が好きで、韓国の学生が漫画をうまく描くからだ。身長は168センチと伝えられたが、スイスの学校ではイスラエルの学生からバスケットボールを習ったりもした。

金正雲は毎日、運転手付きの車に乗って授業に出席したが、他の外交官やスイスの富裕層もそうだったため、特に目立たなかった。 金正雲は北朝鮮大使館で暮らし、北朝鮮大使とベルン都心で食事をする姿が頻繁に目撃されたりもした。

金正雲は数学を得意としたが、天才的なレベルではなかったという。 名前を明らかにしなかった同窓生は「国際学校での教育よりも北朝鮮での影響がもっと大きかったはず」とし「少なくとも金正雲が最高レベルの西欧文化を経験したことは間違いない」と述べた。

当時、学校には金正雲と一緒に通うチョン・グァンという学生がいた。 彼は金正雲の警護員と推測される。ある級友は「ある日、チョン・グァンは友人が口にくわえた鉛筆を足で蹴り落とした。普通の学生はできないことなので、彼は高度な訓練を受けた幼い軍人だったに違いない」と語った。チョン・グァンはスポーツに優れ、金正雲よりも人気があったと、同紙は伝えた。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116357&servcode=500&sectcode=500

1 : プリムラ・ラウレンチアナ(catv?):2009/06/08(月) 01:48:38.10 ID:IcCv+s8g
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海賊対処部隊司令官の五島浩司・1等海佐(50)は「湾内で活動する各国海軍の艦艇が増えたことで、逆に海賊の出没範囲が広がり、海賊の活動も相当増えているというのが実感。『小型船に追われている』などの緊急無線も、多い日には10件を超える」と話す。無線の声が恐怖におびえているように聞こえることもあるという。


この時期、湾内にはモンスーン(季節風)が吹き荒れ、アラビア半島からの砂塵(さじん)が舞うため、視界は極端に悪く、波高が4メートルに達する日も少なくない。海賊の活動には厳しい条件だが、五島司令官は「海賊とみられる不審船は当初、軍艦やヘリを見れば動きを止めていた。しかし最近は、米軍艦が発砲されたように過激な活動も増えている」とも語る。

年間2万隻が航行する湾内は、沿岸国にとっては漁場でもあり、海賊の小型船は漁船と混在して見分けがつかない。「船団の警護中に、何度か不審船が近づき様子をうかがっていることがあった。実際、海賊が使う縄ばしごが小型ボートに積んであったことも、一度や二度ではない」。部隊の幹部もそう明かした。

午後3時過ぎ、護衛予定の日本関係船が次々に集まってきた。その数5隻。艦内の指揮所は各船舶と英文メールで連絡を取り合うなど準備が慌ただしくなった。同3時45分、活動開始から69日、25回目の船団護衛が始まった。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090607-OYT1T00166.htm

1 : ◆V3/DONjiko @変態仮面V3φφ ★:2009/06/07(日) 18:33:34 0 ID:?
 1904年2月、28歳のドイツ人ジャーナリスト、ルドルフ・ツァベルは、日本に向け旅立った。中国の義和団事件を取材した経験を持つ極東専門記者の彼は、日露戦争を取材して欲しいという要請を受けた。20歳の娘との結婚を控えていたツァベルは、急いで結婚式を挙げ、新婚旅行を兼ねた取材旅行に出発した。

日本の横浜に到着したが、戦場に向かうのは容易ではなかった。日本の当局は取材の許可を引き伸ばし続けていた。許可を待つ間、ツァベルは妻と共に韓国へ「新婚旅行」に出かけることにした。釜山に2週間滞在した後、汽船に乗って今度は元山へ向かった。新婚のドイツ人夫婦は元山に15日間ほど留まり、安辺、平康、鉄原を経てソウルまで旅行した。

碧眼の若いジャーナリストの目に映る韓国人は、怠惰で、貪欲で、粗雑で愚鈍な人々だった。

「韓国人は、取引において極めてしみったれていることで有名だ。口数が多い上に、数文の金をめぐって猛獣のように争い、葉銭数枚を受け取るために喜んで3日間を無駄にする。この人々を信頼することは極めて難しかった」

「酒に酔った韓国人が街中で横になっているのはありふれた光景で、女性問題から殺人が起こることも稀ではないという。見ての通り、平均的な韓国人の姿はあまり愉快なものではなかった」

ツァベルが見た韓国のかつての姿は、今われわれが見てもあまり愉快なものではないが、それを単純に帝国主義者の視線だとみなしてしまうことはできないようだ。ツァベルは、文化相対主義的な視角で韓国を観察してもいるからだ。ツァベルは、胸をむき出しにした田舎の女性を見て、このように書いた。

「素肌を露わにすることは無条件に礼節の感覚に背く、と力説するのも難儀なことだ。礼節の感覚というものも、一次的には風習と流行の産物であるだけに、全世界の人々に全く同じ礼節の感覚を期待することはできない。ヨーロッパだけを取り上げてみても、流行に大きく左右されるのが、まさにこの礼節の感覚だ」

http://www.chosunonline.com/news/20090607000006